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斎藤茂吉と鰻。902回も食べた?

今年の土用の丑の日は、
7月20日から、8月6日です。

そこで、鰻を食べる前に、
鰻を愛した文豪をご紹介いたします。

斎藤茂吉とは?

斎藤茂吉(さいとうもきち、1882年(明治15年)5月14日-1953年(昭和28年)2月25日)は、
日本の歌人、精神科医。

伊藤左千夫門下であり、
大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。

長女は百合子、次女は晶子。

長男に斎藤茂太、次男に北杜夫、孫に斎藤由香。
また、妻の弟・齋藤西洋の妻の兄は堀内敬三であり、
娘の夫の兄の息子は金子洋一。

という歌人。

斎藤茂吉と鰻

彼がうなぎ好きなのは有名なんですよね。

斎藤茂吉の大好物が鰻であることは、
文献にもまとめられています。

こういう本が売ってるぐらい(笑)

⇒文献茂吉と鰻 (1981年) (短歌新聞選書)

長男の見合いの席で・・・

昭和18年に、長男の茂太が宇田美智子と見合いをし、
婚約後、両家の顔合わせが築地の竹葉亭で開かれました。

着物姿で緊張していた美智子は、鰻の蒲焼きが運ばれてきてが、少し箸をつけただけであった。

すると、茂吉(当時62歳)が「それを私にちょうだい」と言って、
好物の鰻を取り上げて食べてしまったそうな。

単純に、戦時中に残すなんて、もったいないと思っただけではなくて、
単にうなぎが好きなだけだったんだろうと言われています。

斎藤茂吉の鰻の歌

斎藤茂吉の歌には、鰻を題材ものも数多くあります。

ゆふぐれて机のまへにひとり居りて鰻を食ふは楽しかりけり
(『ともしび』「この日頃」昭和2年)

これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか
(『小園』「折に触れつつ」昭和19年)

最上川に住みし鰻もくはむとぞわれかすかにも生きてながらふ
(『短歌拾遺』昭和20年)

汗垂れてわれ鰻くふしかすがに吾よりさきに食ふ人あり
(『つきかげ』「わが気息(いぶき)」昭和23年)

十餘年たちし鰻の罐詰ををしみをしみてここに残れる
(『つきかげ』「強羅雑歌」昭和24年)

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき
(『つきかげ』「手帳より」昭和25年)

こんなに鰻について書いている家人は、
斎藤茂吉以上にはいないでしょうね。

斎藤茂吉が書き記した日記には、
なんと902回もうなぎを食べたという記述があるそうです!!

食べ過ぎでしょう。

斎藤茂吉は病院の院長として多忙な激務をしていたので・・・

好物の鰻をひとりで食べるのが、
精神的な安定感をもたらしたんでしょうねぇ。

戦時中の斎藤茂吉と鰻

戦時中で食糧難で、鰻屋で好物の鰻が食べられないことが予想されれば、
鰻の缶詰を大量に購入し、押し入れに大切に備蓄したらしいので、
本当に鰻が大好物だったんだろうねぇ。

戦後の斎藤茂吉と鰻

戦後になると、
やはり鰻は高価で贅沢なものでしたが、
茂吉は残しておいた鰻の缶詰を惜しみながら食べていました。

しかし、缶詰が錆びてしまい、
食べることができなくなりました。

そこで上にも記しましたが、

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき
(『つきかげ』「手帳より」昭和25年)

この歌を読んだんですよね。

斎藤茂吉とうなぎについて調べていたら・・・
案の定うなぎ食べたくなりましたね・・・

土用の丑の日には、
やっぱりうなぎ食べようかなー!!